■「お前たちはいらない。難民はどっかに行け」 行き場を失ったシリア難民

堀) ボートで海を渡り、その途中で漂着してしまった命を落とす難民の皆さんもいらっしゃるというのを、世界中で報道されたのが記憶にもある方もいらっしゃるかと思います。ヨーロッパへのゲートともなっていたギリシャの島で難民の支援を経験した牧野アンドレさんに、当時の様子を伺っていきたいと思います。牧野さん、よろしくお願いします。 [caption id="attachment_2833" align="alignright" width="315"] ©︎André Makino[/caption] 牧野) 「子どもたちに未来を与えるため〜ギリシャで出会った「難民」と呼ばれる人々〜」という題でお話しさせていただきます。僕は、2015/16年にドイツのベルリンに留学していて、そこで「難民危機」を体験しました。当時ベルリンは人口比1%で難民を受け入れており、そこら中に難民受け入れの施設があり、僕もそこでボランティアをしていました。その状況を見て、「実際にどこから来るんだろう」という疑問を感じ、船で難民の方が到着するというギリシャの島「レスボス島」にまず行くことにしました。レスボス島の対岸は、もうトルコ。シリアからまずトルコに逃れ、そこからレスボス島に来るという方が圧倒的に多かったです。僕もトルコからフェリーでレスボス島の方に入りました。レスボス島は海がとても綺麗な観光地ですが、もう一つの現実として、「難民が来る島」と言われるようになった場所でもあります。 [caption id="attachment_2834" align="alignleft" width="186"] ©︎André Makino[/caption] 堀) ギリシャまでたどり着けばEUですから、その他のヨーロッパ諸国にも通じますよね。 牧野) はい。だいたいシリアやイラクから逃れて来た方がレスボス島に行きます。そのレスボス島からフェリーでアテネに行き、バルカン半島を通ってドイツやスウェーデンを目指しているのです。「ギリシャに入ってしまえばこれで大丈夫だ」という考えだったのかなと思います。実際に、トルコからレスボス島を中心としたギリシャの島々に渡った難民が、2015年だけで約85万人に達したと言われています。レスボス島とトルコは直線距離で約10キロしか離れておらず、モーターが付いた船であれば2時間もかかりません。しかし、モーターが壊れた場合は4〜5時間で流れ着いたと話している人もいました。ゴムボートは20人用くらいなのですが、50人程がぎゅうぎゅう詰めに乗っていました。海を渡った難民が着たライフジャケットが全て捨てられている「ライフジャケットの墓場」と呼ばれた場所もありました。 [caption id="attachment_2836" align="alignnone" width="720"] ©︎André Makino[/caption] [caption id="attachment_2837" align="alignright" width="219"] ©︎André Makino[/caption] 僕が行っていたのは、海を監視して来る方々を迎え、服を与えるなどのボランティアです。ボランティアの人はだいたい海岸線で、7〜8時間ずつのシフト制に分かれてやっていました。一晩中のこともありました。到着した方々はまずレスボス島の一時受け入れ施設に入るのですが、どんどん次に新しい人たちが来るため追い出され、1週間もいられません。2015年の夏から11月にかけては、1日に100隻来た日もあったと聞きました。僕が実際に現地にいたのは2016年の3月で、「もうあまり船は来ない」と言われていました。バルカン諸国がこれ以上難民を通せないということで、国境を封鎖し始めた時期が、ちょうどこの3月だったのです。国境が封鎖され、難民の人たちが先に進みたくてももう先へは進めない。難民の皆さんは、隣国のマケドニアとの国境付近にある人口400人ほどの「イドメニ」という小さな村に留まらざるを得ない状況にありました。僕もこのイドメニへ向かいました。2016年2月の終わりまではシリアやイラクからの難民に対しては国境を開いていたのですが、3月中旬を境に完全にシャットダウン。門や戦車が国境のところに威圧的に置かれるようになりました。 [caption id="attachment_2840" align="alignnone" width="874"] ©︎André Makino[/caption] 堀) 難民のために国境を強化したのですね。 牧野) そうですね。ある女の子が描いた絵を見せてくれました。左にはヨーロッパ、右にはトルコと書いています。両国がお互いに「お前たちはいらない。難民はどっかに行け」と言っている中で、ギリシャのイドメニキャンプに留め置かれているという状況を表している絵です。 [caption id="attachment_2841" align="alignnone" width="852"] ©︎André Makino[/caption] [caption id="attachment_2843" align="alignright" width="225"] ©︎André Makino[/caption] イドメニに入った当初は、いわゆる難民キャンプと分かるような大きなテントではなく、キャンプ用の小さなテントで暮らしていました。イドメニはマケドニアに通じる商業用線路が通っている場所でもあり、難民の人たちは「国境が開かないなら電車を止めよう」と、線路の傍にテントを張りました。子どもたちも加わって、毎日このように線路脇に座りました。それが彼らの唯一の抗議活動でした。実際ギリシャ政府はかなり困ったようで、イドメニキャンプはギリシャ政府にとっては目障りでした。北部で一番危ないのは雨。水はけが悪く、一度雨が降ると洪水状態になり、その際にはテントは使い物になりませんでした。水はけが悪いせいで靴もすぐボロボロになり、ノルウェーのNGO「A Drop in the Ocean」で靴を配るボランティアを行ったこともありました。 堀) こんなこと起きて欲しくありませんが、仮に僕らが避難しなければならないということで、対岸の韓国に渡ったけれど、韓国側ではもう受け入れが困難で釜山港に留め置かれているという状況ですよね。 牧野) まさにそうですね。「移民は罪ではない」「ドイツは私たちを助けて!私たちを忘れないで!」というプラカードを持っている子どもたちで溢れていました。 [caption id="attachment_2847" align="alignnone" width="720"] ©︎André Makino[/caption] [caption id="attachment_2848" align="alignright" width="213"] ©︎André Makino[/caption] 堀) メルケル首相は、一度は移民の受け入れを積極的に行うと言ったものの、その後ドイツ国内で衝突や事件などが発生し、最終的にはメルケル首相の人気が失墜するというところまで政権基盤も危うくなる程、ヨーロッパ側が難民の受け入れに対して非常にシビアな状況に。受け入れがかなり厳しくなってきているんですよね。 [caption id="attachment_2850" align="alignleft" width="225"] ©︎André Makino[/caption] 牧野) 国境が閉鎖され、ほとんど入ってこない状態になりました。難民で仲良くなった人が送ってくれた写真なのですが、2016年3月に国境が閉められた後、4月中旬に難民の皆さんの我慢の限界が達した日があったんです。難民キャンプではよく「3日後に国境が開く」などの噂が流れるのですが、そうなると噂だけが一人歩きして止めようがなくなってしまう。イドメニキャンプでは当時1万人弱の難民が住んでいたのですが、噂を聞き周辺のキャンプから移動してきた方もいて、この日だけで1万4000人超に達しました。その中にはマケドニアに入ろうと強行突入を試みた若者もおり、マケドニアがギリシャ側に催涙ガスを打ち込むということがありました。この時、入ってきたガスで怪我をした子もいました。 堀) 極限状態だったんですね。 牧野) 気持ちはわかるんです。僕も1ヶ月ずっとそこにいて、「こんなところ、1日でもいたくない」と思いました。1回の食事のたびに、食料配給のために3〜4時間並ばなければならない。本当に極限状態で。「国境が開く」という希望だけをもとに、彼らは生活をしていました。それを、軍事ヘリも投入し、マケドニア軍が鎮圧していました。 [caption id="attachment_2851" align="alignnone" width="720"] ©︎André Makino[/caption] 堀) 自国へ戻るという選択はないですもんね。命からがら逃げてきて。 牧野) イドメニキャンプは、2016年5月24日からギリシャ軍の強制排除があり、完全に閉じられました。強制排除された難民の人たちは、バスに乗せられてギリシャ軍が運営しているキャンプにそれぞれ分けられました。しかし、ギリシャも財政難がずっと続いているため、結局イドメニにいた時と変わらない状況が続きました。 「なぜここまでしてヨーロッパを目指すのか」、一度聞いてみたことがあります。クルド系シリア人が言っていたのがすごく印象に残っています。「もし自分たちだけだったら、絶対にこんなことしない。私たちはシリアに留まった。なぜ一途にヨーロッパを目指すのかというのは、子どもたちの未来を作るためだ」と。すごく衝撃的でした。イドメニキャンプには最終的に1万4000人の難民がいたのですが、半分以上が子ども。そこら中に子どもが走り回っているような環境でした。キャンプが閉鎖される直前、生後2ヶ月のジャスミンちゃんに会いました。イドメニキャンプ内で生まれた子です。お母さんは10代、お父さんは20代です。彼らももちろん「子どものために」ということを話していて。ジャスミンちゃんは生まれながらに難民という状況にある一方で、僕は日本の綺麗なベッドの上で生まれ、美味しいものを食べ、不自由なく教育を受けてきました。この差は何なんだろうと。 [caption id="attachment_2856" align="alignnone" width="852"] ©︎André Makino[/caption] 堀) 生まれる場所は選べないですからね。 牧野) 僕はこの経験があったから、この後ヨルダンにも行こうと決めました。彼らと気持ちを合わせられる人を作っていきたいなと思っています。 堀) 牧野さん、ありがとうございました。

■インフラ整備が進んだザアタリ難民キャンプでの日々の営みとは

堀) ヨーロッパを目指す動きとは別に、シリアの隣国ヨルダン側のザアタリ難民キャンプでは今どんな日常があるのか、そのような支援が必要なのか、KnKの松永晴子さんにお話を伺っていきましょう。 松永) よろしくお願いします。まず、UNHCRによると現在ヨルダンに住むシリア難民は約66万人です。しかし、難民登録をしておらず、この人数に含まれていない方も実際にはいます。 堀) 全員が難民になるわけではないんですよね。資産を持っていて、自力で逃げて生活できる人もいらっしゃいますよね。 松永) そうですね。しかし、内戦前にお金があった方たちも、当時は難民登録しなかったけど、長らく続く今の状況でどんどん資産を使い続けてしまったり、送金をしてもらっていたけど送金が届かなくなってしまったり、という方も出てきています。 堀) 内戦が勃発すると、通貨が暴落するということもありますよね。 松永) シリアは実際に大暴落している上に、ヨルダンはもともと物価が高い国です。ヨルダンとシリアの国境が開いていた時は、ヨルダン人が物価の低いシリアに買い物に行っていたというくらい、物価に差があります。ザアタリ難民キャンプには現在約8万人が暮らしています。全体で66万人の難民がいると言ったのですが、ヨルダンにもう一つあるアズラック難民キャンプと合わせても14〜5万ほどにしかなりません。実は、その他の人たちはキャンプ外に住んでいます。キャンプに外に住んでいる人の暮らしというのも、キャンプとはまた違った大変さがあります。 堀) どういうことで、キャンプに入る人と入らない人に分かれるのですか? 松永) ザアタリ難民キャンプは2012年7月にオープンして、6年が経過しています。2013/14年には倍近くの人がいました。最大約14万人までいたのですが、多くの方がキャンプ外に出て行ったんですよね。シリアから逃れてきて自動的にキャンプに連れて来られたけれど、「やっぱりこの暮らしは嫌だ」と出て行った人もいます。一方で、その後もずっと住み続け、比較的インフラが整ってきた今「あえてここを出る必要はないのかな」という状況になっている人も。 堀) ザアタリ難民キャンプはどのくらいの大きさですか? 松永) キャンプの地図をご覧ください。赤いラインが大きな道で、黄色いラインが小さな道。外周が約20キロです。私たちが事業をしているのは、門から遠く離れた端っこ(写真右下)です。門があるところ(写真左上)は人も物も集まってくる場所。門から遠い私たちのエリアは、もともと人気がありませんでした。 タカハシ) 物を取りに行くとなっても20キロは大変ですね。その間に仲介する人が出るなど、キャンプ内で経済が生まれそうですね。 松永) はい。無料のバスや、乗り合いタクシーもあって、私もよく使います。タクシーは大体160円ほどで、キャンプの中だったらどこでも連れて行ってくれます。 タカハシ) 誰が運営しているんですか? 松永) これはヨルダン政府です。ヨルダンに暮らす地元の人たちをドライバーとして雇っています。「難民キャンプに住むシリア人にばかりに仕事があるのはおもしろくないぞ」という地元の人たちに仕事を与えているのです。シリア人の人たちは、ライセンスの問題で、基本的に車の運転ができない人が多いということもあります。 タカハシ) キャンプが12画で分かれていますが、地域性はありますか?関西人なら関西人だけで集まる、というような。 松永) あります。門の周辺にはシリア南部のダラから来た人たちが比較的集中し、キャンプの一大勢力を築いています。その他の点々としたところから来ている人たちは、今私たちが事業をしている8番の区画周辺(写真右下)に住んでいます。結局中心地には住めなかった、もしくは住みずらさを感じた「その他」と呼ばれている方々です。「親族やご近所さんも同じ場所にいたら安心だよね」というのはきっとあると思います。 [caption id="attachment_2820" align="alignleft" width="300"] 2013年のザアタリ難民キャンプ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] 堀) 先ほど、インフラが整備されてきたということでした。ザアタリ難民キャンプは、最初は衛生環境が劣悪だったんですよね。改善はありましたか? 松永) そうですね。共同トイレに共同水場。トイレもお風呂も自分のところにはないという状況でした。かなりのストレスですよね。しかし今、下水道の工事がどんどん進められています。他にも、もともと3校しかなかった学校が13校までになりました。ヨルダン政府が運営しており、ヨルダン人の先生とシリア人の先生が基本的に50%ずつの割合です。また、医療機関も保健センターやクリニックもできました。相変わらず昼間は電気がないのですが、皆さん少しずつお金も貯めて、自分の家にジェネレーターを買って発電している方も出てきました。また最近、電力が自力で賄えるようにと、ドイツのJICAがキャンプ外に太陽光パネルの整備を進めています。いよいよ自活に向けて整備が進められている段階です。テントがずらりと並び砂埃がひどかった2013年のキャンプの状況と比べると、最近はプレハブが立ち並び、自分の家の前にコンクリ轢いて綺麗にしたり、お庭を作ってみたりと、生活感がある建物が多くなっています。ちなみに、キャンプ内では自転車での移動が多いのですが、その自転車は日本からの放置自転車が大量に寄付されたものです。 [caption id="attachment_2817" align="alignnone" width="2368"] 2018年現在のザアタリ難民キャンプ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] タカハシ) お金はどのように稼ぐんですか? 松永) 例えば、KnKが行なっている教育事業で先生をしてくださっているシリア人の方々には、私たちがお給金を出しています。 堀) 私たちのKnKへの寄付が、先生方のお給料を支え、そして子どもたちが学べるということに繋がっているんですね。 松永) はい。昨年6月の「伝える人になろう講座」でご寄付をいただいて以降、先生の人数は3分の1に削らざるを得なかったのですが、何とか1年事業を継続することができました。ただ、全く雇用が世帯にない家庭もあり、キャンプ内でも格差が出てきています。基本的にキャンプにいる人たちへは、例えばフードクーポンのようなものは今も支給されています。 タカハシ) ヨルダンは難民キャンプを認めているんですか? 松永) 政府がどこまでの意図を持っているのかは分かりませんが、大掛かりな工事をするということは、ある程度の期間難民の皆さんがいることを前提としてしかやらないでしょうから、それは認めているんだと思います。

■難民の子どもたちの未来を支える 新たに取り入れたキャリア教育

松永) KnKのヨルダンでの事業は2013年頃から始まりました。キャンプ内の公立校1校で、音楽、演劇などの授業を提供しています。公立校の先生たちにアンケートで子どもに必要なニーズを訊き、可能な限り授業に取り入れることもしています。今期は生活指導を取り入れました。事業を始めた当時は、戦火から逃れて来てすぐだったので、すごくストレスやトラウマを抱えていました。子どもだけでなく、親御さんも抱えているので、家庭の環境も悪くなりました。しかもお金がなく、お父さんも仕事がなく家にいる状態で、「学校に来てもおもしろくないけど、家に帰っても大変」という家庭も。そういう状況の中で、それでも学校に行くモチベーションを作ってあげたいなというところから、私たちの事業は始まっています。 [caption id="attachment_2828" align="alignnone" width="424"] 生活指導に用いたイラスト©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] 堀) 学校に行くのが楽しくなる、学校が居場所になれるような環境を整備するということですね。 松永) はい。私たちの事業をいくつか紹介します。音楽の授業では、先生がメロディを弾いて子どもたちが音階を歌うということもしています。音楽を教えているのは、自身も難民であるシリア人の先生です。彼女は元々音楽のスキルは持っていたのですが、短大卒業程度でした。しかし、KnKで3年くらい働き、最近では授業に使えるようなトレーニングを自主的にやってくれています。また、演劇の授業では、子どもたちの近くにいる人たちをよく観察して真似をするという感じで進めています。レポーター体験をしたこともありました。 [caption id="attachment_2821" align="alignnone" width="658"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] 堀) 授業を通して様々な職業を学ぶこともできそうですね。ちなみに昨年6月の「伝える人になろう講座」の際に、「難民の子どもたちの将来の夢の選択肢がとても狭い」という課題を共有していただき、アイデアを出し合ったんですよね。難民の子どもたちに「なりたい職業は何ですか」と聞くと、1位が先生、2位がお医者さん。一見立派だなと思われがちですが、実を言うと、子どもたちが日頃接している大人の職業が、先生か医者くらい。世の中にはいろんな職業があるという想像が、小さい頃から難民キャンプにいるとなくなってしまう。選択肢を広げるためにも、「いろんな職業があるんだよ」という話をしたらどうかというアイデアが出たんですよね。 松永) そうですね。インフラは整備され、学校は増え、病院も増え、環境は良くなったけれど、結局6年経ってもやはり、子どもを取り巻く環境、もしくは子どもにその先待っているであろう環境は、現状としてそれほど変わっていないんですね。それはなぜかというと、親御さんの仕事の関係とか、キャンプの環境がそうさせるというところが大きいです。1年生だった子が7年生まで学校に来ることはできているけれど、その先に勉強して大学に行けるのかというと、結構な子がそうではない。8、9年生くらいになると、本当は結婚全然したくないんだけど親がしろと言うからと早婚した子ども、「うちはやっぱりお金がないから外に働きに行く」と言う子どもが、今でもたくさんいます。親御さんの仕事が見つからなかったり、親御さんが戦争で障害を抱えて働けなかったりと、泣く泣く子どもに勉強を諦めて働いてもらうということもあります。キャンプの中にいても、学校に行き続ければ勉学を使った次のチャンスに繋げることができるはず。勉強は、特に難民の人たちにとってすごく大事な武器に本来なるはずだと考えています。 堀) 行きていくため、自分の未来をもう一度作っていくための1番の技術ですよね。 松永) 今学校に行っている子どもたちに、勉強を続けるモチベーションを高めてあげようと、2017年9月からキャリア教育を実際に始めてみました。例えば、5年生の子どもたちには、自分の知っている職業を描いてみようと。警察官や絵描きさんを描いている子がいました。 [caption id="attachment_2825" align="alignnone" width="405"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] また、6年生ではもう少し具体的に、なりたい職業を描いてみようと。薬剤師さんと看護士さんになりたいと描いている子がいました。やっぱりそれでも、教員、医者、看護師が相変わらずトップ3。 [caption id="attachment_2826" align="alignnone" width="404"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] 9年生(日本の中学3年生)では、自分のなりたい職業になっている人にインタビューをしてみようという内容で行いました。学校の先生になりたいという子は、「どうしてなれたんですか?」「何をしたらなれますか?」と先生に聞いてくるという宿題でした。「シリアにいた時にお父さんお母さん、ご近所の人がやっていた仕事をインタビューするのでもいいですよ」という話でプリントを配ったのですが、実は回収率が良くありませんでした。よくよく話を聞いてみると、「お父さんが、『もうその仕事できないし』って言っていた」と。 [caption id="attachment_2827" align="alignnone" width="405"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] 堀) 聞くのも酷ですよね。 松永) 子どもが空気を読んで聞かなかったのかもしれません。「お母さんが昔やっていた仕事の話を聞こうと思ったけど、あんまり進んで話をしたがらなかった」という子もいて、なるほどなと思いました。実際に私たちがキャリア教育の中で子どもたちの様子を見ていたら、夢はあるけど、具体的に何をしたらいいのかわからないという子どもたちもたくさんいました。実は、まだ身近なモデルロールが見つかっていません。自分たちで探すということはやってもらったのですが、例えば、キャンプの中から大学受験をして大学に通えている人の話を聞かせられる機会があればいいなと。 堀) 実際どうなのですか?キャンプから大学に行くケースもあるのですか? 松永) 一応あります。でも、大学試験に行くまでに生き残れない人が多くて、だいたいみんなドロップアウトしてしまいます。でも全くいないわけではなく、一定数はいます。 タカハシ) もちろん奨学金制度みたいなものもあるんですよね? 松永) はい、ありますね。特にシリア人に向けた奨学金制度というものが、外国からのファンドで出ています。

■先生の暴力に支援の打ち切り 子どもたちの心に大きなダメージ

松永) 学校の様子を見ていると、どんどん問題が出てきているのが分かってきました。 堀) どんな問題ですか? 松永) 学校の先生からの暴力です。これは本当に困った話で、ヨルダンの集まりでこの話をすると、私たちの事業はすぐに停止させられます。彼らは「暴力はない」と言っているので。でも、私たちは実際にこの目で見ているという状況です。これは、人材が不足しているというのもありますし、研修が十分でないということもあります。 堀) 学校の先生としての教育を受けていない人も、臨時で学校の先生になっているんですよね。 松永) はい。これは水道とガスのホースなのですが、小学1年生の子がこれを振り回して学校にやってくるんです。「なんで使うの、危ないじゃない。お友達にも当たるよ」と、そのホースを取り上げるのですが、ものすごく泣くんです。「どうしたの」と聞くと、「これは先生にあげるんだ」と言うんです。どういうことかというと、先生が授業中にこのホースとかで机を叩いて子どもたちをを静かにさせているんです。先生が「ホース、誰かくれよ」と言うと、「はい、先生!」と持ってきたホースを渡しに行くんです。 [caption id="attachment_2829" align="alignnone" width="540"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] 堀) 先生の気を取り繕おうと思って、渡しているということですか? 松永) そうなんです。私もかなりショックで本当に困ったなと思っているんですが、ヨルダン政府は「こんなことやっていない」と。外部の団体が介入しても、問題をもみ消されるか私たちが潰されるかのどちらか。私たちができることは、子どもたちが持って来たものを片っ端から回収すること。1週間で20本くらいのホースが取れることもあります。遠くてお客さんも来ず、外部の目が届きにくいんですね。 堀) 他に問題はありますか? 松永) はい。特別支援が必要な子どもたちも結構たくさんいて、サポートがないと授業についていけないことも。しかし、特別支援の施設を持っていた大きな団体さんがユニセフ経由の資金をカットされ、運営していたセンターが閉鎖されてしまいました。 堀) 資金を切り上げるという判断が、直接子どもたちに影響を及ぼしているんですね。 松永) はい。こういうところに如実に出ています。20箇所以上あったキャンプ内のセンターが一気に閉まって、再開の目処も立っていません。内戦がここまで長期化し、「ずっと資金を調達し続けるのも無理だよ」という団体さんがどんどん出てきてしまっています。 堀) このような環境の中で、子どもたちに何か変化はありましたか? 松永) はい。アハマド・アイッサくんは、いつも教室の外で疾走しています。「シリアでは学校が大好きだった」とお父さんが言っていました。でも、学校に来ても授業に出たがらない。最近インタビューをしたら、「すごい勢いで先生に暴力を振るわれたり、自分のせいじゃないのに自分のせいにされたりすることがたくさんあって、そういう先生の授業には出たくないから外に出ているんだよ」と。兄弟も多いから、なかなか親御さんも「『学校に行け』としか言えず、学校でどうしているかは把握しきれない」と話していました。 [caption id="attachment_2830" align="alignnone" width="405"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] ハサンくんは14歳で、本来ならば8年生に入るのですが、まだ5年生。楽観的で、「学校大好き」と言ってくれるのですが、やはり彼もダブっているのもあり、何かあったら絶対に彼のせいにされてしまう。「学校の授業は好きだけど、先生は好きじゃない」と言っていました。 [caption id="attachment_2831" align="alignnone" width="405"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] ムハンマドくんは、耳は聞こえるのですが、発音が苦手。学校の授業の中でもアラビア語の授業はお手上げ。授業の時間につまらなくて、ついKnKの職員室などに来てしまいます。KnKの事業は5年生からなので、2年生の彼は関係ないのですが、誰も助けてくれる人がいないので、KnKの先生の手が空いた時に指導しています。「学校の間は教室に行きなさい」と戻すのですが、公立学校の先生も「僕たちが言っていることに対してあんまりリアクションがないから、もう外にいてもいいんだよ」と言ってしまうんです。誰も彼にきちんとした指導ができないという状況です。支援の断ち切りもあり、フォローする側がきちんとしたスタッフを送れていないという結果、こういうことが起きています。 [caption id="attachment_2832" align="alignnone" width="405"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption] 子どもたちが相談をしたいときに、「親でも親族ではないけど信頼できる大人の相手」になれているというのが、KnKの先生の存在の意義でもあります。そういう存在を子どもたちから奪ってしまったら、子どもたちの逃げ場がなくなってしまうんだろうなと最近感じています。 堀) 実際に淡々と子どもたちの日常の支えていくという支援を行なっている団体が、こうしてあるんですよね。それを知ることが、まずは大切なんじゃないかなと感じます。 松永) 地味なのですが、継続をしていくということに今後も注力を注いでいきます。 [caption id="attachment_2823" align="alignnone" width="720"] ©︎国境なき子どもたち(KnK)[/caption]

観察ノート