■支援の必要性が気づかれづらい、見えづらい「言語難民」という課題

子どもが関わる様々な課題や問題点についてお二方とも活動を続けていらっしゃるので、ひょっとしたら共通点や共通認識があるのではと思い、お話を伺っていきます。まず、駒崎さん、動画を見てどんな印象を持たれましたか? 駒崎 動画《※【言語難民】日本語がしゃべれず、ひとりぼっちの子ども達を助けたい》を拝見させていただいて、正直泣きました。すごくいい活動だなと思って。特に、中国人の、日本に来て1年しか経っていなくて、でも都立高校の入試の発表が前日に迫っているという中国の男の子が、不安で泣いてしまって。それを学習室のスタッフの方が抱きしめるというシーンがあったんですけど。思わずもらい泣きしてしまいまして。不安だよなと。僕自身も高校の頃、実は1年間アメリカに留学していて。自分が外国人である経験っていうのをしたんです。でも本当に不安で。言葉が通じないっていうのは、何よりもやっぱり不安で。日本で当たり前にできていたこと、当たり前に説明できていたこと、そういうものが奪われてしまう。なんて言ったらいいかわからなくてモゴモゴしてると、「なんだこいつ」という風な目で見られてしまうような経験をした。やっぱり言葉ってすごく重要だし、日本にいる外国の方々が日本語を学べる機会を提供しているっていうのは本当にかけがえがないなと心から思いましたね。 海外ルーツの子どもの言語教育の必要性をご存知でしたか? 駒崎 実はですね、「おうち保育園」っていう小規模な保育園を都内で14園やってるんですね。そこに結構外国籍の子どもがいて。親御さんももちろん外国人なんですけど、時々、英語も日本語も全く喋れないっていう親御さんがいらっしゃるんですね。そうすると、行政の必要なサービスとか全然知らなかったりして。手を伸ばせば支援が受けられるにもかかわらず、手を伸ばせない、あるいは伸ばすことを知らない、伸ばし方も知らないという状況になっていて。どんどん就業前から劣位な状況になっていってしまう。それに対して我々も、保育をしながらソーシャルワークをしようと頑張っているのですが、日本にいる外国人の方の支援サービスが全然ないということを日々感じていたので、こうした取り組みがあるのは素晴らしいなと思ったんですよね。 田中さん、駒崎さんの話を伺っていかがですか? 田中 外国人の方々で、うちだと年間に100人くらい支援をするのですが、その中で97%のご家族が今後日本以外の国で住む予定はないというんですね。例えば、今10代の外国人の若者たちが日本語を学べないまま、いずれ日本国内で社会に放り出されて、家庭を築いて、出産をして、そして、また働かなくてはいけなくてという状況になった時に、さらに負の連鎖になる。情報が取れない、子供を育てるのも初めてだし、子どももよくわからないという連鎖がもう既に始まっている状況だなと思っていまして。そんな現場の深刻な実態に比べると、やはり、そういう支援を必要としている方々が社会の中に一定数いるという認識がとても低いなという風に感じています。 なかなか見えてきにくい現場なんですよね。自分が生活しているコミュニティに外国にルーツを持つ子どもがいなかったら知る由もないし。交わる場も整備されていないのかなと思ったり。 田中 意識をしないと、彼らが生活者であるということが非常に見えて来づらい。外国人の子どものお話をしたりすると、「じゃあインターナショナルスクールに行けばいいじゃない」とか、そういうレベルでの見え方になってしまう方々もいます。例えば、子どもが日本で生まれ育って、ペラペラと日本語を喋っているように見えるだけで、「もう大丈夫」というような形で、支援が必要だという認識にはなかなかなっていない。そういうところで、すれ違っていたとしても、接点があったとしても、なかなか支援の必要性っていうのが気づかれづらいという意味で、より見えづらい、と思いますね。

■外国にルーツを持つ子どもは、現在一体どのくらい日本にいるのか?

駒崎 一般的には、そうした外国人の子どもたちというのは大体日本に何人くらいいるもの、あるいは、年間にどのくらい増えていったりしているものなのでしょうか? 田中 日本国籍を持つ外国ルーツのお子さんもいるので、正確な数値を把握するというのは非常に難しいと言われています。国勢調査ベースだと、2010年度で、外国籍の両親がいる、あるいはどちらか片方の親御さんが外国出身者であって、且つそうした親御さんと同居している子どもというのが、183万人くらいいると言われているんですね。同居という制約がついているので、すでに独立した、同居していない若者については把握されていない。外国ルーツの人々自体は、社会の中に2〜3%くらいには上ってきているとみられています。 [caption id="attachment_1389" align="aligncenter" width="912"] 『2010年国勢調査にみる外国人の教育 ――外国人青少年の家庭背景・進学・結婚――』(岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第39号 (2015.3)[/caption] 駒崎 そうした子どもたちの数は増えているんですか?それとも一定数、横ばいという感じなんでしょうか? 田中 2005年の国税調査の段階で、176万人だったので。 駒崎 ちょっとずつ増えているんですね、やっぱり。 田中 そうですね、やはり、増加傾向にあるというのは言われていますね。 駒崎 なるほど、なおさら支援は必要ですよね。 4年連続で、海外から日本に働きに来る労働者の数は増加中で、去年初めて100万人を突破したということで。必然的に、家族と一緒にやってくると、動画でご覧いただいたフォーン君のように、中学生くらいになってお父さんの都合で日本にやって来て、いきなり受験を迎えるというケースもそうでしょうし。僕も田中さんの話を聞いていてそういうケースもそうだよなと思ったのは、日本に働きに来て日本で結婚されて、ただ日本の男性が結婚を全うせず離婚してシングルマザーになるケースというのも、結構外から見えづらいものとして横たわっている。そのような家庭は貧困状況に陥るという、ひとり親世帯と同じようなことが外国にルーツを持つ世帯でも起こる。

■外国ルーツを持つ子どもの教育を受ける権利

外国籍だと? 駒崎 どういうことですか。例えば小学校5年生の外国籍の子がいても、義務教育じゃないから行かせなくてもいいってことですか?  田中 基本的にはそうなってしまう。子ども権利条約上、教育を受けてもいいよと。
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。 2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
駒崎 そうか、憲法では、国民の義務だから、国民にならないから。 田中 という理解なんですけど。ただ、実は憲法の原文は英文じゃないですか。あれは、国民じゃないんです。Japanese people限定してないんですよ。 駒崎 全ての人々になっているんですか?  田中 All peopleなんです、主語が。原文は。  駒崎 日本語の日本国憲法の26条は、「全て国民は」ですかね。「国民は」になると国籍に限定されるので、日本に住んでいる外国籍というのは排除されるわけですね。  田中 外国籍の親御さんは、子どもに関する教育の義務を負っていない。ただ、今やっぱり色々な人々の多様性への理解が上がっているので。例えば、日本国籍を持つ親御さんの育てる外国籍の子どもがいるんです。逆に、外国籍の親御さんが育てる日本国籍の子どももいて、そういう現象が広がって来ているんですよね。 駒崎 そしたらやっぱり、憲法改正の時に、26条いじって大学教育も教育無償化しようという動きがあるじゃないですか。それと一緒に、「国民は」の主語は「全て人は」にした方がいいですよね。 田中 そうですね、憲法改正について、今教育レベルでいうと、私自身はまずその主語をどうとらえるかという認識を、時代に合わせて変化させていく必要があると思いますね。  その土地に生まれその土地で死ぬというのが国民だという定義はもうちょっと古いかもしれないですね。

■YSCが始まったきっかけ:修学拒否に悩む親御さんへのサポートを

駒崎 通常そうした子は、普通の公立の小学校や中学校に行くと思うんですね。田中さんたちはそうした子どもの、中学校を終わった後の学習の場として貢献されているのか、それとも、オルタナティブとして存在されているのか、どのような形なのでしょうか?  田中 オルタナティブではないですね。15歳以上で来日をして高校進学を目指している子ども達にとっては、唯一の場。予備校的な、居場所的な、日本社会の入り口として機能している部分はある。支援対象自体は、6歳から、若者を定義した枠の39歳まで、プラス外国人保護者も扱っていて。社会のリソースが非常に限定されている中、とにかく手広くやらざるを得ない。学校に通っているお子さんも放課後、塾のような形でサポートをしていますし、学校に行くための支援というようなこともしていますし。もともと文科省の委託事業でスタートしたんです。その時は、就学を支援するということがメインの事業だった。日本語がわからなくて、親御さんが就学の手続きができない、あるいは、目に見えない就学拒否というようなケースが全国で散見されていて。そういうものを調整して、しっかり日本語も教えて、学校に元気に通えるようにしようというのが元々のスタートなんですよね。  駒崎 なるほど。就学拒否っていうのはどういうことですか?自治体としては、当然どんな子であれ、義務教育だから通ってもらうのが務めだと思うのですが。拒否というのはどういうことなんですか?  田中 何を以って就学拒否という風にいうか、という捉え方次第だと思うんですけど。もちろん行政の方は非常に頑張っていらっしゃる。例えば、就学通知を日本語でしか出さない、明らかに外国籍の世帯の方でも日本語でしか案内が行かないということや、周りにわかっている人がいなければそれが何だか理解できないようなケースもありますね。丁寧にやっていかないと、そのようなケースが発生してしまいます。また、同時に、例えば、受け入れたいけれども受け入れ態勢がない、学校に入ってこられてもただ教室に座っているだけになってしまう、ということを学校や教育委員会さんが懸念、心配をして、敢えて、日本語ができるようになってからきた方がいいですよと善意のアドバイスをすることがあるんです。ただ、周りに日本語を学ぶところがありませんよということになると、結果として、就学したいのにできなかったという事態になってしまうということですね。後者の事例の方がまだたくさん残っていると思いますね。 この春先、入学シーズン前にYSCの皆さんがやられていたのは、就学前の親御さん向けの講習会だったんですね。「連絡帳」という仕組みは日本独特だと。さらに、その時の親の対応。このケースはお休みにしていいけど、このケースは日本の学校社会ではお休みとして受け入れられないんだよとか、そういう細かいところまで伝える講習会を開いてらっしゃった。難しいだろうなと思ったのは、とにかく言語が多様で、英語もあればフランス語もあればタガログ語もあれば。確かにそれをYSC以外で学ぼうと思ったら大変だろうなと。それは駒崎さんが冒頭におっしゃったように、保育の現場でも親御さんいろんな国籍の方いらっしゃる。  駒崎 本当に、英語だったらまだ、保育者も「片言だけど話して」ということができる。タガログ語とか、どうしたらいいかわからない言語があった時は、一生懸命「おやすみで〜」とか、ジェスチャーでやっているんですけど、「通じないでしょそれ」みたいなところがあって。今すごく困っているんですよ。役所に行くと、「それは園の方で適切に対応してください」と言われて、「え、それどう言うこと!」ということがあって。結局、役所もグローバル対応を全然してくれない。頑張っている部署がいるのかもしれないですけど、少なくとも保育課は「ちょっと知りません」という感じになる。そういう意味で、やっぱりリソースが全然足りていない、繋がっていないというのを肌で感じていて。

■学校側の戸惑い 横のつながり・連携の必要性

駒崎 これからグローバル化だといっているし、人口も減ってくから、どんどん(海外から)来てもらいましょうと言っているのに、国が一生懸命補助している痕跡が見られない。全く補助なしでいつもやれてるんですか?それともいろんな制度引っ張ってきて運営されてるのか?その辺どうなんでしょうか? 田中 今、可能な限り、自主事業として有償で収益を得てという方向性を立てているとともに、外国人お親御さんそれほどお金持ちではないので、なかなか経営が難しいというところもあって。でも使える助成金、補助金は活用して、パッチワークみたいにいろんなものを組み合わせて運営を維持しているというところですね。東京都でいうと、生活文化局さんが東京都在住外国人支援制度という助成金制度を持っていて。これが2、3年前から拡充をされている。それまで上限300万円までの2分の1というタイプだったのですが、上限1000万円までの2分の1まで出るようになって。だいぶ使い勝手が良くなってきた。東京都自体もそういう側面から、教育委員会ではなくて、生活文化局という国際交流を担当するところから手を広げているというところがありますね。国としても、文化庁が生活者としての外国人のための日本語教育事業という補助金を持っていますし。子どもに特化しないという点では、割と補助金というものは活用できそうなものが少なくない。国としてもグローバル化が進んでいく、そうした人々を受け入れるという中で、教育の重要性というのを十分良くご理解いただいていて。国としては義務教育の年齢にあっては、小中学校内でなんとかすべき、学校の先生がやるべきだというスタンスが前提になっていて、保育所の方もそうだと思うんですけど。学校の先生方自体、非常に戸惑いがあって。 駒崎 そうですよね。むちゃくちゃ忙しいし、むちゃくちゃ残業してるし。 田中 国語と日本語って、教育のあり方が全然違うので、専門性を学校の先生に一生懸命孵化しようとしている状態。全く喋れない段階から、日常会話がある程度理解できるようになってくるという初級の段階を支えるのは、非常に専門性が必要になってくる。そこで四苦八苦しているというケースは多いですね。ちょっと喋れるようになってくれば、逆に教科を教える学校の教員の方々の方が得意というようなことはあるんですけど。あとは、夜間の中学校を受け皿にしているという形で、少しずつ進んではいますね。  駒崎 夜間中学でそうした外国籍の子どもたちを受け入れるというのは良く知られたことだと思うんですけど。夜間中学とかの数自体というのは十分に足りているものなんでしょうか? 田中 いや、全然足りてないですね。今、都内に8校、全国で31校。埼玉県は、自主夜間中学という形で、ボランティアの方々が、特にそれで義務教育が終了になるわけではないのですが、学習をサポートされてきた。昨今の流れでようやく今年度、夜間中学開校の運びになりつつある。一都道府県に最低限一つは設置しようという動きになっていますね。 駒崎 そうなんですね、なるほど。あと、小学校にやらせようという時、多分小学校ごとにケースを共有するとか、専門性を取り入れてとか、やってないような気がするんですよね。横のつながり。少なくとも僕ら保育系では一切やってないです。保育の現場にいて困っているケースはある。そもそも言葉通じないといった時に、役所に聞いても、「そこは何とかしてください、あなた方が。」という対応で。保育園と小学校の引き継ぎもまともにないと思いますよ。どのような家庭環境で、という。保幼小連携と言うんですけど。一応口だけ言っているけど、具体的にケースを引き継いで、「この親御さんの言語レベルこれくらいだから、こういうような支援必要ですよね」みたいなことはほぼやってない。小学校入って「あれ?」と、ゼロからのスタート。 そのあたりの連携の必要性というのは、田中さんどう思われますか?  田中 連携の必要性はとても強いなと思いますね。支援者の方、あるいは保育者の方、先生が、それぞれ単独で抱え込んでしまうと、最も不幸なことが起きやすい。そもそも意思疎通が難しいというところなので。例えば、外国人の親御さんと子どもと先生だけとなると、例えば誤った情報を伝えてしまうとか、支援が必要な状況を日本人側が理解ができないとか、とてもリスクの高い状態になると思う。横のネットワークを広げて情報を共有するということがとても大事だなと思います。外国人のお子さんの教育課題については、基本的には小学校の対応から始まった部分があって。例えば、ある自治体で、小学校に日本語学級が設置されているのに中学校にはないという自治体さんが割と多い。小さな子どもを何とかしないといけないという発想だったのかもしれないですけど。あるいは、親御さんが帯同して連れてくるお子さんが、小学生が多かった可能性はありますけど。小学校から広がってきて、ようやく、中学校にも日本語教育必要だよね、英語の先生がいるからいいやっていうわけにはいかないなという認識が出てきて。そのあと、高校には入れないね、試験が難しくて、高校に進学させるためにどうにかしようよっていう話になってきて。でもやっぱり手遅れだね、もっと小さい頃からどうにかしようよと、ようやく保育段階に目が向いてきたのがここ数年なんですよね。

■多様性に対応できる力、マイノリティも包摂して行くという教育のあり方

僕も取材をしていてなるほどなと思ったのは、一つには、言語難民と言うような表現で、どこにもなかなか受け皿がなくて、YSCがある地域はこうして専門的な日本語教育を受けられますけど、ないところはどうするんだと。自治体によっても全然対応にばらつきがあるという話と。もう一つは、専門的な言語教育を受けられないことで陥ってしまう、自分のアイデンティティも確立できない。母語も日本語も専門的に不十分。ダブルリミテッドっていうそうですね。そういう問題について放置していくと日本にとっても、非常に社会的に様々なコストが増えていく。この問題ってあまり共有されていないんじゃないかなと思って。その点、駒崎さんどう思われますか? 駒崎 そうですよね。僕、こないだオランダに視察に行ったんですけど、オランダもめちゃくちゃ難民がいて。その小学校では8割が難民の子たちだったんですよね。いや、すごくて。「8割が難民ってすごいな」と。でも、すごく丁寧に言語教育していて。まさにオランダ語が全然喋れない子たちに授業して。一学年10人ちょっとで先生2人とかだったんですよ。すごいと思って、これを日本でやれたらどれだけ丁寧に行くだろうなと。やっぱりお金のかけ方が違うよなと。これ、フィンランド行った時も思ったんですけど、全然やっぱり手数が違う。(日本のように)40人クラスに日本語が喋れない子が来たら、絶対先生無理だなってことになるわけですよね。ヨーロッパは担任・副担任制だから、副担任がサポートしたり、あるいは、遅れのある子ども専用クラスを作っていて。フィンランドだとグレーゾーン学級といって、完全に発達障害ではないけど特性がある子たちのための6人のクラスがあったりして。そこに先生が2人ついててやっていたりするんですよね。すごく楽しそうにやっていて。スティグマ(社会的弱者としてレッテルを貼ること)になっていないという状況があって。学校の先生の働き方改革をして、かつ、ちゃんと増員させて、インクルーシブに外国人の子もいれば障害者の子もいる多様な就学環境を作れたら一番いいなと思うんですけど。何せ、学校が先生1人に40人という劣悪極まりない、さらに財務省が、「少子化で先生が余るから、減らそう」といっている。何をか言わんや、で。そういう意味では、僕は障害児の保育をやっていますけど、結構重なる部分があるんですね。外国人というマイノリティも包摂して行くという教育のあり方を10年後20年後、作っていかなければならないと思うんですよね。  田中 そうですね、私がいつも感じている方向性としては、外国人のための何かを特別に作るというよりかは、社会全体がそういった障害も含めて多様性に対応できる力を身につけるというのが非常に重要だなと思っていて。まさにその、社会がインクルーシブ、あらゆる場面のどこを切り取ってもインクルーシブであるという状況を作ることが、一番コストが安い。多様性を力に変えやすいだろうなと思っている。現実的に、外国人の日本語教育を行う上で、もちろんポイントで専門的な知識ですとか経験というものは必要なんですけど、どうしても翻訳しなければならない、通訳が必要だというような、とても特別なものだと感じられる。でも今、例えば、子ども家庭支援センターさんで働いている職員の方々が、福生市は特に外国人家庭の対応が多いので、うちのスタッフと情報を共有していくことによって、外国語はわからないけれども外国人のご家庭は助けることができるというスキルと自信が身についてくる。そう言った形で、いろんな局面が多様化する。多様性というキーワードが出た時に、障害やLGBT、ダイバーシティって本当に人によって定義が異なるので、その中で定住外国人の方々っていうのも含められていってほしいなと思っていますね。 (取材・記事 GARDEN Journalism編集部 井上香澄)

観察ノート