原告「和解の意思はありません」 裁判長が笑顔で答えた「安心しました」
堀潤) 1月23日、私も現場に行って裁判も傍聴してまいりました。裁判を通して広く伝えたいこととは具体的に何を指しているのか。当時6年生だった三男の雄樹くんを亡くされた佐藤和隆さんにお話を伺います。佐藤さん、よろしくお願いします。 佐藤和隆さん)※以下、敬称略 こちらこそ、よろしくお願いします。 堀) 佐藤さんは、昨年大川小学校の現場を案内してくださいました。現場の子どもたちが、「先生あっちの方に逃げたほうがいいんじゃないか」と言ったすぐ目の前の裏山へは実際には避難出来ず、学校の先生たちの誘導の元、津波が迫る方向に逃げてしまった。その地理的な状況も含めて説明をしてくださいましたね。そして今回の裁判の結審の様子も傍聴しましたが、とにかくご遺族の皆さんが県と市に対して訴えたことは法廷の中でも非常に涙に包まれ、裁判所の書記官の方も泣いてしまうくらい非常に胸に迫るものがありました。 佐藤) そうですね。 堀) 結審の前に、和解勧告を受けるかどうかという話を、原告の皆さん、そして被告側の市や県に対して裁判所が確認するという聞き取りがありましたよね。その時にどんな話をされたんですか? 佐藤) そもそも、裁判なんて初めてのことですし、全てが初めてのことでした。最終的な結審の時、被告と原告が別々の部屋に入り、その中でまず原告側に裁判官から「和解の意思はありますか」という質問をされました。それに対して我々は、「和解の意思はありません」ということを伝えました。そしたら、「分かりました」という返事がありました。次に裁判官が奥の部屋に行き、帰ってきた時に、「被告側は『条件によりけりで和解に応じたい』という消極的な和解案を示していますけど、みなさんどうしますか」という話を裁判長の方からされました。それに対して我々は、「先程申したように和解に応じる意思はありません」と伝えたら、裁判長が満面の笑みで、「そうですか、分かりました。安心しました」という言葉を我々に伝えました。 堀) 裁判長はどういう思いから「安心しました」という言葉を言われたんでしょうね? 佐藤) あくまでも推測なのですが、やはりこれは大きい問題なので、裁判所側でもしっかりとした判決を書きたいという思いだったのかなと思います。和解となれば、結局は真実が何だったのか実際にわからないまま終わる。推測ですが、そういう結末を裁判所側も、避けてたのかなと思います。和解というのは「何にも残らない」ということになってしまいますからね。教育者からの不誠実な対応に、「傷口に塩を塗られるような7年」
堀) 当時大川小学校では、地震発生から津波到達までの51分間、街では津波の襲来に警戒して防災無線などでも「津波が来ます、高台へ逃げてください」という案内もあり、学校内では子どもたちからも「避難をしたい。裏山へ逃げたほうがいい」という声があったものの、学校の先生方の判断でなぜかこの校庭に留まることに。もう避難しなければいけないという時には津波が襲来し、子どもたちが飲み込まれる事態になってしまいました。実際には、教職員11人のうち10名が亡くなりましたが、1人の先生は避難。ところがその先生は裁判でも証言することはなく、実際に親御さんたちは本当の情報を知っている先生からも直接聞き取りをしたいにも関わらず、それさえ叶わず。県や市側は、「避難は適切だった」という主張を続けてきたんですよね。今回和解には応じられませんでしたが、ご遺族の皆さんは何に一番憤り、何を明らかにしてほしいと思われているんでしょうか? 佐藤) そうですね、1審では我々が勝訴しました。勝訴してまもなく、時間も開けず、宮城県石巻市が翌日控訴のような形で我々を控訴しました。我々は「控訴をしないでください」とお願いをしたんですよ。私たちは再審の裁判をしたくなかったにも関わらず、二審に持ち込んだのは県と市。それに対して私たちは受け入れるしかない。そして最終のところで、「和解も条件によっては考えます」という、我々からは理解出来ない回答を相手側が出してきた。本当にやるせない気持ちですよね。その結審の後、「本当に和解できなくて残念だ」というコメントを宮城県の村井知事、石巻の亀山市長、並びに被告側の弁護士さんが言っていると。何を言っているのかなと。我々は争いたくなかったんですよ。一審で終わりにしたかったんですよ。 堀) そうですね。佐藤さんたちのこれまでの闘いの様子を振り返ってみると、そもそも裁判に至る前の段階から、子どもたちの証言を集めた資料が廃棄されていたこともありました。さらには、本来であれば学校はマニュアルを作って適切な避難誘導の訓練をし、災害時にはそうしたマニュアルに則ってきちんと避難をする。仮に目の前でそのマニュアルで対応できないようなことがあれば臨機応変に対応して子どもたちの命を優先して守っていく、というのが義務教育課程にある学校の一つの責任であろうと思われていた。ところが裁判の中で闘ってみると、学校側、つまり県や市側は、「自分たちの指導には問題はなかった」という姿勢を貫くわけですよね。そう言った部分で、まだまだ明らかになっていない、実態解明に繋げていかなければならない部分は、具体的にはどういう点なのでしょうか? 佐藤) そうですね。この7年を振り返って今思うことは、そもそも学校という教育の現場で裁判まで発展してしまうこと自体が考えられない。教育に携わる人たちというのは嘘をつかない人たちだというのが私の前提でした。いざ自分が、我が子を、宝物を失くす立場に立たされてからは、教育者からの不誠実な対応に、傷口に塩を塗られるような7年でした。なぜ自分の大切な子どもを亡くし、なおかつこのような不誠実な対応を7年も強いられるのか。本当に悔しいというか、残念でなりませんね。 堀) 実際に生き残った先生もいろんな思いを抱えていらっしゃるとは思いますが、具体的に裁判の中でも証言に立つことはありませんでしたし、その後ご遺族と向き合って情報が共有されていくということも、十分に行われなかったんですよね。 佐藤) そうですね。 堀) その先生を責めることに繋がらなければいいなと思いながらも、本当のことをやはり話してほしいという思いは強いと、以前も伺いましたね。 佐藤) 助かった先生は、残念ながら自分1人で逃げた先生なのですが、学年問わず、大川小学校で1番子どもたちに好かれてた先生なんですよ。震災直後から圧力があって、自分の意思とは関係なく出て来られないと思うんです。そこをやっぱり打ち破って出てきて、亡くなった子どもたちのために本当のことを言うのが、子どもたちが大好きだった先生の最後の仕事かなと私は思います。なぜ大川小だけ・・・ 2審の争点は「学校側の震災前の備え」
堀) 1審の判決では、地震後の津波の予見が認められ、さらに、裏山に避難させなかった学校側の過失を認めて県と市に対して14億の賠償命令をした。ところが、県や市は高裁にさらに控訴。高裁での争点は何だったのか、そしてそこで新たに言われた県と市の言い分は何だったのか。この2点を教えていただけますか? 佐藤) 1審では、「当日の予見、可能性」の1点だけ。2審に関しては、「当日」、「事後」の話は争いませんと。とにかく「事前」のこと。「平時の大川小学校の取り組みはどうだったのか」ということをずっと審議してきました。改めて思うのですが、その震災前の備えが不備だらけで、子どもの命を預かる責任を全く理解していないなという思いです。 堀) 具体的に、どのような点が議論されてこなかったのでしょうか。 佐藤) なぜたった1校なのか、というのが問題なんです。 堀) 東日本大震災の津波で学校で預かっていた子どもたちが亡くなったケースというのは、大川小学校だけなんですよね。他の学校では、親御さんが迎えに来る、先生が誘導するなどで、学校管理下での子どもの死者は出なかった。なぜ大川小学校だけだったのかと。マニュアルの問題だったり、先生が適切に動けなかったり、校長の指導力の問題だったりと、色々指摘されましたよね。 佐藤) そうですね。私なりにこの7年考え、資質のない人が校長先生になったが故の、尊い子どもたちと先生方の命が奪われた事故だと考えるようになりました。 堀) 校長は、災害時の児童引き渡しに関して事前に保護者と手段を確認するための「児童カード」を作成していなかった。校長は震災当時、その場にもいなかったんですよね。「学校の責任の範囲内で子どもが命を落としているのに誰もその責任を認めようとしない」という行政側の対応に対しての憤りは、大変強いものが伝わってきました。「子どもは国の宝。命をもう一度、国民みんなで考えていきたい」
堀) 記者会見の中で、当時6年生だった長男の大輔さんを亡くされた原告団団長の今野浩行さんに、僕が「今回の裁判を通して何を訴えていきたいか、風化が進む中で何を皆さんに考えてもらいたいか」という質問した際、こうおっしゃっていましたね。 「『大川小学校の悲劇を繰り返さない』とか、『二度とこのようなことが起きないように』という言葉をよく使うんですけど、本音を言えば、人を蹴散らせてでも息子は助かって欲しかったんです。ただ、もう助かるという状況はならない。もう死んでしまったから。後戻りはできないわけですよね。そうした時に次に何を考えるかというと、『せめて同じ過ちを起こして欲しくない』、そう考えるしかないんですよ。それが本心かというと、違うんですよね。前に述べたことが本心なんです。助かって欲しかったんです。うちの子どもは学校防災を教訓にするために産んで育てたわけじゃないんです。宝として育ててきた子どもに、やっぱり助かって欲しかった。本人は夢もあったし。実際は助からずに亡くなってしまった。だから『教訓』という言葉を使うしかないんです。」と。 佐藤さんはなぜこの裁判を戦う必要があると感じたのか、改めて教えてください。 佐藤) まずは、「なぜ息子が死ななくてはいけなかったのか」、その1点だけだったんです。裁判が進むにつれて、いつからか分からないのですが、現在全国で起きている子どもの命に対する教育界の向き合い方が、大川小学校に対しての石巻市、宮城県の向き合い方とまったく同じ構図だなと感じるようになりました。 堀) いじめの問題や、親御さんが「なぜ?」と思うような学校での様々な事象に対してですよね。 佐藤) そうです。それを変えていくのが私たちの使命かなと、いつの時からか思うようになりました。義務教育の学校管理下で74人も亡くなったにも関わらず、教育現場では反省もない。それではいけないと思うんですよ。今変わらないといつ変わるのという話なんです。 堀) そうですね。一番背中を見せなければならない学校現場が、こういう姿を見せてしまうというのは本当にがっかりですからね。 佐藤) 残念ですね。特に、教育者というのは信頼されて当たり前の職業。震災前の先生たちを見る私の気持ちと、震災後に教員と言われている人たちを見る目線が、まるっきり今は違うんですよ。 堀) 改めて最後に一言。地震が発生し津波が襲来してからまもなく7年です。その後も様々な震災も発生し、東日本大震災の記憶というのが薄れていく、いわゆる風化と直面する中、改めて佐藤さんたちは何をこれから発信していくべきだと思われますか? 佐藤) 一番発信したいのはやっぱり、よく子どもは国の宝だと言いますが、本当に子どもは国の宝なんですよ。その宝物が失われるという現実が至る所で起きています。やはり、命をもう一度、国民みんなで考えていきたい。未来ある夢もある子どもたちが失われるような教育社会を、私は変えていきたいなと思います。 堀) そうですね。実は大川小学校では、「大川伝承の会」の語り部の皆さんの活動が続いているんですよね。 佐藤) 月1回行っています。 堀) ぜひ皆さん、ご自身の目で現場を訪ねてお話を伺ってみてください。佐藤さん、引き続き宜しく御願い致します。ありがとうございました。 佐藤) ありがとうございました。 堀) 判決は4月26日です。引き続き、この裁判の行方を追って伝えていきたいと思います。涙の陳述書 「私も見つけてもらったら抱っこしてもらいたい」
最後に、法廷を涙に包んだ、ご遺族の鈴木実穂さんからの陳述を一部紹介します。鈴木さんは、当時12歳だった長男堅登君を亡くし、当時9歳だった長女巴那さんは未だに行方が分かっていません。陳 述 書 平成30年1月23日 鈴木 実穂 子供を失い、家を失い、失望の中、意を決して提訴に踏み切った2014年3月。あれから3年10ヶ月、本日、結審を迎え、走馬灯のように色々なことが思い出され、大変感慨深いものがあります。一審で勝訴の判決をいただくことができましたが、石巻市、宮城県の即日に近い控訴により、私達は安堵する間もなく、また失意のどん底に突き落とされました。一審判決の内容は決して、私達遺族にとりましても満足できるものではありませんでしたが「裏山への避難は可能だった」「教員らは津波襲来を予見できた」「不適当な避難場所を選定した」この判決は、私達が主張してきたとおり、認められて当然の内容であります。石巻市、宮城県がいかなる理由付けをしてきても、この判決は覆されることはなく揺ぎ無いものだと確信しております。控訴されたことには大変憤りを感じましたが、私個人の思いとしましては、高裁で「事前の学校防災対応」について、改めて審議できたことは、大変意義のあるものだったと実感しています。 大川小だけがこのような甚大な被害に遭ってしまったのは、柏葉校長の怠慢と市教委の学校防災意識の低さによるものだということを、証人尋問により、あらためて確信しました。校長の責務を明らかに怠っていた事の一つに、引渡しのあり方が確立されず滞ったままだったことが挙げられます。柏葉校長が平成21年4月の大川小赴任時に保護者から防災用児童カードを提出してもらい、児童引渡し確認一覧表を作成しなければならないことを、前任から引き継ぎ、柏葉校長も承知していました。にもかかわらず二年間手付かずで放置されていたことは、怠慢のなにものでもありません。作業を怠ったため、結局柏葉校長が就任していた間に引渡し訓練は実施されませんでした。しかし、教育計画には防災用児童カードの運用が明記されていました。市教委は、このような大川小の杜撰な教育計画を、点検、指摘することなく、容易に見過ごしてきました。まさしく学校保健安全法の第26条による、学校の設置者である市教委の責務に反するものであります。私の義理の母は地震後、孫達の帰宅を待ちわび、自宅から一歩も外に出ることなく犠牲になりました。私が在住していた長面地区の多くの祖父母達も同様に自宅で犠牲になっています。柏葉校長が早急に引き渡しの具体的な方法を確立し、保護者への周知を徹底していれば、祖父母達は孫達の安否を気にすることなく直ちに避難し犠牲になることはありませんでした。校長として、市教委として、平時から学校防災に忠実に取り組んでさえいれば、子供達の命、祖父母達の命が奪われることはありませんでした。よって柏葉校長、市教委の責任は重大であり、地震発生前の平時における安全義務に違反するものであります。この事件は明らかに人災によるものです。 これまでも一貫して主張して参りましたが、私が提訴に踏み切ったのは行方不明の娘への想いがあります。遺体が見つかったのと、見つからないのとでは雲泥の差があります。いまだに娘を葬ってあげられないことで、親の私もさることながら、私の父と母の心労をも増長させました。父は昨年頃から認知症の傾向が現れ始めました。ずっと張り詰めてきた気持ちが一気に切れてしまったかのようでした。これまで人前で泣くことなどなかった父が、私の前でも子供達の遺影に向かい声を上げて泣くようになりました。震災後から誰よりも気丈に振舞い、主人と私を気遣い、孫達がいなくなった悲しみを、父はずっと自分の胸に仕舞い込み耐えていたのです。子供達がいなくなって一番ショックをうけていたのは、本当は父だったのかもしれません。子供達が生きていれば、父はまだまだ元気でいたはずです。子供達の死、そして娘が行方不明であることは、私達と祖父母達の生きる力を喪失させ一生を台無しにしました。石巻市、宮城県には責任を取っていただかなくてはなりません。また、一審で認めていただけなかった、娘の捜索のために仕事を辞め、二年間働けなかったことに対しての保障も認めていただきたいと思います。遠藤純二氏が7年間も教師としての地位のまま、経済的に保障されていることを考えれば、私の経済的保障が認められてもおかしくないものと考えます。慰謝料をあらためて請求し、損害論を是非構築していただけるようお願いいたします。 村井知事が、震災当時多くの高齢者が大川小に避難し教員らがその対応に追われた、教員らの努力を否定できない。と発言したことに対し反論させていただきます。先に提出されました、震災当日子供を迎えに行った保護者のAさんの陳述書で、Aさんは、大川小の校庭に子供達と教員らと子供達の保護者が何人か居たが、近所のお年寄りはいなかった。さらに、何人かの教員らは校庭にいる子供達の回りに立っていて、石坂教頭がボードのような物を持ち、迎えに来た保護者の確認をしていた。と言っています。すなわち、大川小に地域の人達が押し寄せることも無く、指揮を執らなければならなかった校長代理の教頭が、自ら引渡しを勤め、さらに他の教員らも子供達の周りに立っていました。よって教員らは地域住民の対応に追われてはおらず、さらに避難を検討する余裕もあったことが分かります。このような教員らの行動の、一体どこに努力を感じるのでしょうか。知事は不確かな情報をあたかも真実のように公言し、教員らをかばう振りをして世論を味方につけ、教育行政の責任を免れようとしています。また、震災から一年後の2012年3月11日、知事が大川小を訪れた際のことです。知事は私にこう言いました。三角地帯の方を向いて「こっちじゃないよなぁ」と言うと、今度は裏山の方を向いて「こっちだったよなぁ」と。つまり、教員らが子供達を避難させるのは、三角地帯ではなく、裏山だった。三角地帯への移動は判断ミスだったということを言ったのです。知事自身も十分分かっていたのです。そうであるならば専決処分で控訴を決めるのではなく、二度とこのような事件が繰り返されないように、首長として、県、国ぐるみで学校防災を見直し、私達の声に耳を傾け、改善に取り組むべきだったのではないでしょうか。大川小の事件をなおざりにし、やり過ごそうとしている宮城県の対応に強い不信感を抱きます。 高裁での審理となり、学校防災が争点となったことで私は、他校の避難行動を知るために、教員に知り合いがいる私の友人を介し、震災当時の避難行動を聞かせてもらいたいと伝えてもらいました。ところが、裁判に関わっている私のことを話したとたん、教員らは話はできないと断ってきて、こう言ったそうです。「避難行動と言えども、コメントすれば裁判に関わったことになる。亡くなった子供達のことを思うと胸が痛むが、たとえ大川小の避難行動が間違っていたとしても、亡くなった大川小の先生達を批難することはできない。」一見、同僚をかばっているような話しぶりですが、私には、保身のための「組織防衛」「事なかれ主義」の言葉にしか受け取れませんでした。組織の中で足並みを揃えることが、そんなに大事なことでしょうか。大川小の避難行動が間違っていると認識しているのであれば、どうして声を上げて正そうとしないのでしょうか。大川小の事件に対して教員らの受け止め方がこの程度では、今後も子供達の命を守ることなどできません。また、証人尋問において、潮見裁判官が山田元郎氏に「教育専門家として児童の安全は教職員が守りますから安心してくださいと、そのような言葉は述べられませんか」と尋ねた際、山田氏は最後まで「児童の安全を守れる」と言及することはありませんでした。児童の命を軽んじている、こうした山田氏の発言こそが、今の教育委員会の実態であります。子供の安全を守れない山田氏のような人が、今現在も幼稚園の園長職に就き、教育現場に身を置いているこの現状に大変脅威を感じます。大川小の避難行動の一番の原因はまさしく「組織防衛」「事なかれ主義」だったということを、教育関係者一人一人が自覚し、今一度どうすれば児童の安全を守ることができるのかを真剣に考えるべきです。 最後に子供達からのメッセージを読み上げます。私は鈴木巴那です。私はあの日、地震の後、寒さと怖さで体の震えが止まらなくて、校庭でお友達と手をつないで励ましあいました。お友達のお母さんが次々とお迎えに来るのを見ていて、私も迎えに来てもらいたいなぁって思ったけど、お父さんもお母さんも仕事で迎えに来れないのは分かっていたから、諦めて先生の言うことを聞いて、じっと待っていました。お利口にしていれば絶対大丈夫だって思っていました。でも、校庭から出るとすぐに、ものすごい勢いの津波がきて、私は流されてしまいました。私はあの日から、まだお父さんとお母さんの所に帰れずにいます。他のお友達は見つけてもらって、お父さんとお母さんに抱っこしてもらったりしたけど、私はまだしてもらえません。私も見つけてもらったら抱っこしてもらいたい。ずっとそう思ってきたけど、もうその願いは叶わないみたい。だって、もうすっかり骨だけになっちゃったんだもの。でも、こんな姿になっても、お父さんとお母さんの所に帰りたいなぁ。あの日の朝お母さんが「いってらっしゃい」って、いつまでも見送ってくれたっけ。あれがお母さんとのお別れになってしまったね。大好きな学校で、頑張って泣かないで先生の言う通りにしていただけなのに、どうしてこんな悲しい目にあうの?どうして私はお父さんとお母さんの所に帰ることができないの? 僕は鈴木堅登です。あと一週間で小学校の卒業式だったのに。4月からは楽しみにしていた中学校生活が待っていたのに。レントゲン技師になるために、僕は私立中学校を受験した。合格発表の日、僕の受験番号「98番」を見つけた時は嬉しくて、あの時の感動は今も忘れないよ。でも、その喜びはあっという間で、夢も叶うことはなかった。3月11日、僕達は長い間、校庭で待機させられた。6メートルの津波って聞こえてきて、同級生の雄樹くんと大輔くんが「山に逃げたい」って孝先生に言ったんだ。僕も9日の夜、お父さんに「今度大きい地震がきたら津波が来るから逃げろよ」って言われてたから、すぐにでも校庭から逃げ出したかったんだ。でも、先生の言うことをきかないとダメだし、勝手な行動は許されない。だから、ずっとがまんして避難させてくれるのを待っていたんだ。やっと避難が始まって「良かったぁ」と思って間もなく僕の目の前に、ものすごい高さの津波の壁があらわれて、あっという間に波の渦に飲み込まれてしまった。必ず先生達が助けてくれるって信じてたから、僕達は先生の言うことを聞いて校庭でずっと待っていたんだ。先生達がもっともっと早く安全な場所に逃げさせてくれれば死ななくてすんだんだ。あの時12歳だった僕は、生きていれば今年20歳になる。来年は成人式だ。どんなに楽しい毎日を過ごしていただろう。大学生になっていたかな。車の免許も取っていただろうな。僕達の人生はこれからだったんだ。僕達はもっともっと生きたかったんだ。 村井知事、亀山市長、この場にいる宮城県、石巻市の関係者、子供達の悲痛な思いが、どれほどあなた達の心に刺さりましたか?あなた達は家に帰れば愛しいわが子に会える。抱きしめることもできる。でも私はもう二度と子供達に会うことも触れることもできません。子供に先立たれた親の思いは一生です。子供達がもがき、苦しんで死んでいったように、私も死ぬまで子供達を想い、苦しみ、もがきながら生きるのです。震災当時の大川小の状況を思い浮かべてみてください。そして大川小の子供達が、あなた達のわが子だったとしたら。あの裏山にさえ登れば助かるのに、生き残ることができるのに・・そう思いながら、寒さと恐怖の51分間、子供達はどんなにか、あの裏山を恨めしく校庭から見ていたことか。先生達に助けてもらえると信じ続けながら、結局、最期は大量の水と土砂を飲み込み、流木や大きながれきに直撃され、もがき、苦しみながら息絶えて逝った、それがわが子だったとしたら。