■きっかけは、日々の些細なことの積み重ね
世界経済フォーラム(World Economic Forum)が2018年12月に公表した「The Global Gender Gap Report 2018」によると、男女格差を測る「ジェンダー・ギャップ指数」で日本は149カ国中110位、先進国では最下位であることが明らかになりました。この指数は、経済、教育、健康、政治の4つの分野のデータから作成され、特に経済参加では117位、政治参加では125位と、大きな課題があることが示されています(※1)。
「僕は、どこかそれを感じ続けていたんですよ。アメリカに10年住み、2007年に日本に戻ってきたのですが、やっぱり圧倒的に日本に来ると生きにくい。フェアじゃない感じがしていて。ずっと奥底にあったんですよね、これ(映画)をやりたいなっていうのは」。
こう話すのは、劇映画やドキュメンタリーなど幅広いジャンルで活躍する映画作家の舩橋淳さん。現在、最新作『些細なこだわり』の日本国内での劇場公開、国際映画祭への出品を目指し、クラウドファンディングに挑戦中です(支援募集中:https://motion-gallery.net/projects/little_obsessions)。
「些細なこだわり」は、セクハラやLGBTをテーマに、MeToo運動でも浮き彫りになり始めた日本人の発展途上ジェンダー意識について世間に広く投げかける映画です。
「本当に些細な日常にある『女だから』『男だから』というのが日本社会のあらゆるところにあって、非常に抑圧的に枠にはめるところがある。それが『生きづらさ』を作っているなという感覚があった。それがあらゆるところで、特に女性にプレッシャーを与える形になり、抑圧を与える形になり、突き詰めていけばセクハラという形で出ていたりする。実は、日常の小さなレベルでたくさんある。それが、女性だけでなく、男性も生きづらくしている。妻と一緒にアメリカから日本に帰ってきた時、僕も日本の働き方にフィットしていったのですが、やはり妻の方がすごいストレスを抱えていて。『なぜ男が決めて、女は決められないんだ』と。ジュエリーデザインというある程度女性が生かされた現場であるにも関わらず、男女の役割がまだまだあり、居心地の悪さがあるという話はよく聞いていました」。
(※1)「Global Gender Gap Report 2018」、World Economic Forum、17 December 2018、https://www.weforum.org/reports/the-global-gender-gap-report-2018
■「男」である自分がジェンダーをテーマに撮る意味
舩橋さんは、「男が撮ることに意味があると思った」と話します。
「男は非常に居心地が悪そうにして黙ってしまうんですよ、セクハラの話をすると。また、自分で線を引く人も。『セクハラってお尻触るやつでしょ、それはまさか俺はしないから』と。その(考えの)延長には性暴力やレイプがあり、『それは犯罪だから。それは俺と全然違うから』と線を引いている人がいる。しかし、言葉の暴力など他にもたくさん(セクハラの形)はあるのですが、そこに関しては実はあまり分かっていないことも」。
アメリカに「マンスプレイニング(英語: Mansplaining)」という言葉があります。これは「man」(男)と「explain」(解説・説明)をかけ合わせた言葉で、「男性が女性を見下し偉そうに何かを解説すること」を意味します。
「女性がその道でエキスパートであるっていうことは全然あることなのに、そういうことを無視して『女性は何も知らないから俺が教えてやるよ』とマウンティングする。日本社会でも至る所にいるじゃないですか。日本に帰ってきて最初に違和感を持ったのはニュース番組。女性アナウンサーが『とりあえず私はトピックを話す係』、横の解説員の男性が『男がちゃんとしたことを言うぞ』という感じで構えている。『これは何だ』と。男は本質的なこと話し、女性がアシスタント的なことをする。この役割が非常に歪に見えました。これをひっくり返したらおもしろい。アメリカでは「Gender equality(ジェンダー平等)」を揶揄したコメディもあって。無意識レベルでやる動作の支配関係に非常に敏感であるのが欧米だと思っていて。それが日本は非常に遅れているように感じます。僕だって、いつでもセクハラをやりかねない。いつでも加害者になりかねないという危機感と覚悟を持ってないと。我々は110位ですから。何を言ってもセクハラになるかもしれないぐらいの覚悟を持っていかないと変えられないなと思うんですよね」。
■当事者の実体験をフィクションに 台本のない演者の言葉に映し出される日本社会の今
令和元年(2019年)5月29日、参議院本会議で「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律等の一部を改正する法律」が可決・成立したものの、依然として「ハラスメントに対する法整備は不十分だ」と舩橋さんは指摘します(※2)。
「ハラスメントに関する法案は通りましたが、実効性が全然ない。映画を制作するにあたっていろんな弁護士の先生にも話しを聞いたのですが、レイプや性暴力に関してはまだまだとはいえ一応法律はある。しかし、セクハラに関しては罰しようがなく、多くの場合泣き寝入りの状態になっていると。この映画を撮ることが、今の日本には意味があるのではと」。
舩橋さんは当初、ドキュメンタリーで伝えたいと、職場でのセクハラ被害を受けた女性を中心に10人以上に直接話を聞き、WEBでのリサーチも行いました。しかし、そこには大きな壁がありました。
「まず、カメラを構えられないですよね。女性だと、まず男が入ってきてカメラを向けるだけで非常に暴力的。だから、どんな時でも、まずは関係作りのためにカメラなしで話して『もしよかったら』という感じでいくのですが、『もしよかったら』という雰囲気にならない。色々な体験を聞かせてもらったのですが、『職場にバレたくない』、『言わないで欲しい』、『実名は伏せてくれ』と、そういうのばかりで。ただ、話を聞くと、ものすごく生々しい。本当に辛い思いをされていて。考えるだけで吐きそうになったり、泣きそうになったり、という人もいました」。
そこで、取材を通して聞いた実体験をまとめて台本化し、フィクションとして映像化することにしました。ただ、台本は用意せず、それぞれの立場の設定と物語の大まかな流れだけを決め、出演者が自分の言葉で自由に話す即興的スタイルでの撮影手法を取りました。出演者から出てくる言葉はまさに日本の社会を反映し、その「生の言葉」に監督自身も「びっくりした」と話します。
「『男性が書く台本で全員が演じる』ということに非常に違和感がありました。上司、部下、同僚などと立場を決めてやると、日本の組織がそこに出てくるんです。例えば、自分の同僚がセクハラ受けても、それをかばうことによって自分の立場が危うくなりそうな時、その人は本当にかばってあげられるのかという問題が出てくる。上司(女性)では、『自分がこれまで男社会にフィットしここまでのし上がってきたのは、いつかこのセクハラ社会を日本社会を変えてやろうと思っているから。私だってセクハラの一つや二つはされてきたのよ。セクハラされようが、そこでのし上がってから変えるのがあなたの仕事。あなたは仕事が出来るんだから、そこはのし上がれ。そこで負けて出て行っても、どこかまた同じ経験するわよ。日本はこういう社会なんだから、泣きながらでも歯を食いしばってしがみついてやりなさい』と言う人も出てくる。あくまでもセクハラを受けた女性をカバーしようサポートしようという人もいれば、そういう風に男社会に入り込んでしまった女性も出てきて、あまりにもリアルで僕もびっくりしました」。
(※2)女性の職業生活における活躍の推進に関する法律等の一部を改正する法律案、厚生労働省、https://www.mhlw.go.jp/content/000486033.pdf
■「些細なこだわり」を声に出し、認め合える社会へ
タイトルには、「みんな違っていて平等」な社会を模索する監督の思いが込められています。
「匂いに敏感な人もいれば、距離感に敏感な人、声の抑揚に敏感な人、態度に敏感な人も。それぞれに敏感な人もいれば、鈍感な人もいて。どちらかが正しいというわけではない。しかし、日本はどちらかが正しいという支配的なルールが何処かにあるから、そうじゃない方を抑圧しているところがある。でも『違っていていいんだよ』と。男女それぞれに些細なこだわりがあって、それをお互い認め合う社会になってほしいという意味を込めました。
この映画をきっかけに、ジェンダーに関する違和感、気持ち悪さ、生きづらさなど、日頃抱えるそれぞれの「些細なこだわり」について「対話」が生まれればと、監督は切に願います。
「『ジェンダー平等』に対する意識はあるけれど積極的に発言できなかったり、うすうす感じているけれどちゃんと声に出すことができなかったり、ということは、特に女性からよく聞きます。セクハラのことや、『男だから』『女だから』とはめられる社会についての違和感は、誰もが経験することがあると女性から言われることもあります。そういう方にまず、この映画をツールとして使い、対話を作っていってほしい。『これ変えなきゃいけないよね』『こういうことあるよね』ということを少しずつみんなが話すようになっていけば社会を変える一歩になるんじゃないかなと思っています。職場で女性の割合はちょっと増やそうよと。『そういうのはやめたほうがいいんじゃない』という会話がやりやすくなりますよね。女性の話ばかりしましたが、きっと今の時代は男も感じている。『自分がこれを再生産したくない』という人は、この会話に入って欲しい。そのような場を作りたいですね。
行くつく先はやはり教育。子どもの頃から意見を言える社会にならないと変わらないような気がして。戦々恐々としてお互いが言いたいこと言えない社会になっているのは、『言いたいことを言う文化がないから』だと思います。日本の学校の先生に聞いたのですが、『質問ある人』『これどう思いますか』と言った時に手を挙げなくなるのが、だいたい小学校3〜4年ぐらい。『空気読む』という日本独特の社会性を学ぶのがその時期らしいのです。アメリカでは小中学校でもたくさん手を挙げる。それは、社会環境がよくあるすることなく、『意見がある人こそ言え』というところが社会文化としてあるから。僕はこれが日本社会の根源だと思っています。自分の意見がある人は言える社会に変えていかないと、自己検閲してしまう社会になってしまうと思います」。
クラウドファンディングは10月31日まで(支援募集中:https://motion-gallery.net/projects/little_obsessions)。